人とのお付き合い
人見て、ホットケ???
あなたは、
「誰に対してでも、
同じ態度で接するべきだ」
とか、
「相手によって、
態度を変えることは、いけない」
と、固く信じ込んではいませんか?
けれども、
決して、そんなことはないのです。
相手によって、
態度を変えることは、
必要なことです。
相手が、
赤ちゃんでも、
子供でも、
大人でも、
老人でも、
みんな
同じ態度で接するのは、
不親切というものです。
相手に合わせて、
相手に通じるような、
態度や言葉で接することこそ、
親切です。
だから、
相手によって、
態度を変えることが、
必要なのです。
お釈迦様は、
「
人見て、法説け」と言ったそうです。
どんなにありがたい説教でも、
相手に通じなければ、意味がありません。
相手に合わせて、
相手がわかるように、
法を説きなさい、ということです。
相手の特徴を理解し、
相手に通じるような、
態度や言葉を見つけていくことは、
そう簡単なことでは、ありません。
試行錯誤も、必要です。
そして、
練習も、必要です。
本音と建前と…
もし、
この地球上に、
人間があなた
1人しかいなかったら、
きっと、あなたは、
建前も、
見栄も
外聞もなく、
自分の
欲求のまま、
自分の
感情のまま、
自分の
気持ちのまま、
本音だけで、生きていくことでしょう。
けれど、
そこに、もう
1人、
人間が現れたとたん、
そうもいかなくなります。
きっと、あなたは、
相手のことを考え、
自分と
相手との関係を考えるでしょう。
そしてまた、
自分のことを
相手がどう思うか、
ということも考えるでしょう。
そうして、あなたは、
相手が、どういう人かによって、
自分の
本音を、
どの程度出していくかを、
決めていくことになるのです。
本音は、相手に対して、
全部出さなければいけない、ということはありません。
隠さなければいけない、ということもありません。
本音は、
相手によって、
時と場合によって、
どの程度出すか、自分で決めてよいことなのです。
本音は、一つとは限らない
本音とか、
本心とかいうのは、
一つとは限りません。
自分の中には、いろんな自分がいて、
いろんな感情や考えが、同時に存在しています。
迷いや
葛藤が生じるのも、そのためです。
まったく相反するような感情や考えであっても、
両方とも、
本音ということもあります。
なので、
自分の中に、いくつもの気持ちがあるとき、
「どれが、自分の
本当の気持ちなのか」
と考えても、答えが出ないことがあるのです。
同じように、
人との付き合いの中で、
「相手の気持ちは、どうなんだろう」と考えるとき、
「どれが、
本当の気持ちか」
というように、
本音は一つしかないもの、
と決めつけてしまう訳にはいきません。
自分についても、相手についても、
「どれが、
本当の気持ちか」
と考えるより、
「どの気持ちが、
より強いか」
と
強さの程度を考えたほうがよいのです。
ついに、本音を吐いたな!
あなたは、
醜い心が出てきたときに、
「ついに、
本音を吐いたな!」
と、それこそが、
本音であると、
決めつけたくなったりは、しませんか?
本音は、言わなかったり、隠したり、
なかなか、表に出てきにくいことが、多いものです。
けれども、
表に出てきにくいからと言って、
醜いもの、
悪いもの、とは限りません。
そしてまた、
「
醜いもの、
悪いものだけが、
本音である」
ということもないのです。
「
建前は、
美しいもの、
良いもの」
「
本音は、
醜いもの、
悪いもの」
と単純に、決めつけることはできないのです。
たとえば、
人が困っているとき、
建前では、規則があって、特別扱いできないときでも、
本音では、「何とか助けてあげたい」
という場合もあります。
こんなとき、どちらが
良くて、どちらが
悪いと、
そう簡単に、言えることではありません。
「
本音は、
醜いもの、
悪いもの」
とは限らないことを、忘れないでください。
あなたは、内弁慶(うちべんけい)?
相手によって、
相手との関係によって、
自分の
気持ちを出す程度や、
態度が、
変わってくるのは当然です。
なので、
家の外での、
対外的な顔と、
家の中での、
家族に対する顔とが、
違っているのは、当然と言えます。
けれども、それが、
あまりにも違うと、問題が起きる場合があるのです。
それは、
内弁慶です。
家の外では、そうでもないのに、
家の中だけで、
威張る人のことです。
外では、
良い人で通っているのに、
家では、
嫌われ者です。
外で、あまりにも
自分を押さえ込んでいると、
その反動で、
家の中では、
わがままいっぱい、
ということが、起きてしまうのです。
もし、あなたが、
内弁慶なら、
家の中だけでなく、
外でも、
もう少し
自分を出す努力が必要でしょう。
そうすることで、
家の外での態度と、
家の中での態度の、
極端な状態が、解消されます。
しかし、
自分を出すにも、工夫がいります。
自分を
出すか、
出さないか、
のどちらかではなく、
どの程度、
どんな形で出すのか、
考えてみましょう。
もちろん、
試行錯誤や、
練習が必要です。
親しき仲にも礼儀あり
「
親しき仲にも礼儀あり」という言葉があります。
逆に、
親しい間柄なのに、
礼儀ばかりにこだわっていると、
他人行儀(たにんぎょうぎ)、
ということになってしまいます。
要するに、
程度の問題です。
礼儀のあり、なし、
のどちらかではなく、
親しさの程度によって、
礼儀の程度も、変わってくるのです。
もしかしたら、あなたは、
親密な間柄においては、
礼儀が、一つもいらないことを、
理想に思っているのかもしれません。
しかし、それが許されるのは、
赤ちゃんくらいです。
言葉を覚える年頃になれば、
最も親しいはずの
家族に対しても、
「
おはよう」の挨拶をしたり、
「
ありがとう」とお礼を言ったりします。
非常に
親密な間柄だからと言って、
礼儀が一つもいらない訳ではないのです。
相手が
人間である以上、
相手を
人間として、
尊重することは必要です。
そしてまた、
自分には、自分の
限界や、
許容範囲があるのと同様、
相手にも、相手の
限界や、
許容範囲があります。
親しい間柄であっても、
相手を
人間として、
尊重し、
相手の
限界や
許容範囲を、考え合わせた上での、
礼儀が必要なのです。
お互いが
心地良くあるために、
お互いに
良い関係を維持するために、
「
親しき仲にも礼儀あり」なのです。
みんなオイラが悪いのさ〜♪
あなたは、
人との付き合いの中で、
すぐに
謝ってしまう、
あるいは、
「
すいません」が、
口癖になっている、
ということは、ありませんか?
「自分のほうが、
悪いのではないか」
と
反省する態度は、
謙虚で、すばらしいことです。
けれども、
度が過ぎると、
相手は、
ウンザリしてしまいます。
ときには、
傲慢に思われることさえあるのです。
なぜなら、
「
自分のせいだ」と言うことは、
そのことに対して、「自分は
影響力を持っている」
ということを意味するからです。
あなたの
力の及ばないことに対してまで、
「
自分のせいだ」と言うことは、
オカド違いか、
傲慢ということになってしまうのです。
しかし、
何でも、
自分のせいと思ってしまうのは、
じつは、「
子ども心」の
なごりです。
子どもは、
自分中心の世界に住んでいて、
自分のことと、
相手のこととの、
区別が、あいまいなので、
「何でも、
自分と関係がある」
と思ってしまうのです。
たとえば、典型的な例が、
「お父さんと、お母さんの仲が悪いのは、
私(
僕)
のせいだ」
と、
子どもが悩む例です。
さて、あなたは、
何でも、
自分のせいと思ってしまう
癖は、
ありませんか?
それは、ホントに自分のせい?
何でも、
自分のせいと思ってしまうあなたは、
誤解しているのかもしれません。
「
責任を感じるということは、
責任があるのだ」
と、思い込んではいませんか?
責任を感じることと、
責任があることとは、
同じではないのです。
責任を感じるからと言って、
必ずしも、
責任があるとは限りません。
そしてまた、
責任を感じないからと言って、
責任がないとは限らないのです。
「
責任を
感じる、
感じない」は、
気持ちの問題ですが、
「
責任が
ある、
ない」は、
事実の問題なのです。
責任を感じたときには、
事実はどうなっているのかを、
見直してみましょう。
そして、
本当に、
自分に責任があることなのかどうか、
大人の頭で、検討してみましょう。
自分の責任…
何でも、
自分のせいと思ってしまうあなたには、
「
自分の責任かどうか」
と考えてみるのが、役立ちます。
責任という考え方には、
その
責任を果たす
能力や
権限も、含まれます。
すなわち、
「自分は、それを行なう
能力を持っているか」
「自分が、それを行なう
権限を持っているか」です。
能力も、
権限もないことに、
責任を持つことはできないし、
責任を問われることもないのです。
責任を持つことができるのは、
自分の
力の及ぶ事柄であり、
自分の
力の及ぶ範囲です。
自分の
力の及ぶ事柄、
範囲であれば、
自分の
意思や努力によって、
その事柄に
影響を与えることができ、
その事柄の
結果が、
変わるし、
変えることができます。
私たちは、自分の
力の及ぶことにのみ、
責任を持つことができるのです。
…のは〜、あなたのせいよ〜♪
何でも、
自分のせいと思っていると、
自分の
力が及ばないことにまで、
努力したり、
何とかなるはずだと、思ったりするので、
疲れきってしまいます。
それなら、
何でも、
相手のせいと思っていれば、
楽なのでしょうか?
いいえ、そんなことはありません。
「
相手のせいにする」ということは、
相手次第で、
結果が決まってしまうということです。
そのことについて、
「自分の
力が及ばない」
「自分は
無力である」ということです。
そうやって、何でも、
相手のせいにしていると、
自分の力で、
解決できることがあっても、
気づくことができません。
すると、結局、
不満ばかり言うことになってしまうのです。
自分の力で、
変えられることまで、
手放す必要はありません。
自分の力を、忘れてはいけません。
なんで、できないの!!
あなたは、人に対して、
「
なんで、できないの!」
と、
怒ってばかりはいませんか?
この、相手に対する
怒りは、
期待はずれから来るものです。
「相手は、そう
できるはずだ」
と思い込んでいたのに、
その
思い込みが、
裏切られてしまったから、
怒りがわくのです。
なので、
言葉は、
疑問形でも、
できることが
当たり前と思っているので、
問答無用なのです。
もしそうやって、
あなたが、
怒ってばかりいるのなら、
あなたは、
相手に対する、
思い込みが強く、
相手の
現実を、よく見ていない可能性があります。
相手は、あなたと同じ
人間ですが、
あなたと同じ
能力を持っているとは、限りません。
あなたと同じ
価値観を持っているとは、限りません。
あなたと同じ
考え方をするとは、限りません。
「
相手に期待するな」
ということではないのです。
そうではなくて、
相手の
現実を知ることが、必要なのです。
期待は、自分の
願望と
予想の上に成り立ちます。
相手に対して、どんな
願望を持つことも、自由です。
しかし、
予想は、
事実に基かなければ、
はずれる確率は、高まります。
「
なんで、できないの!」
と、
怒ってばかりのあなたには、
相手の
現実を知ることが、必要なのです。
人に対して厳しい人は…
自分のことは、棚に上げて、
人に対してだけ
厳しい、という人も、
いることにはいます。
しかし、
多くの場合、そうではありません。
人に対して厳しい人は、
自分に対しても、
厳しいのです。
人に対して、
あれこれ
注文や、
文句を言いたくなってしまう、あなた。
じつは、
自分にも、
厳しくはありませんか?
人に対して厳しい人の多くは、
人に対してと同じように、
自分に対しても、
注文をつけたり、
「これではいけない」と
戒めたりしているのです。
そして、
気をつけたり、気を遣ったり、努力をしたりと、
さまざまな
労力をはらっているのです。
もし、あなたが、
「自分は、人に
厳しすぎる」とか、
「もっと、人に
寛大になりたい」
と、思っているのなら、
まずは、
自分に対して、
厳しくしすぎるのを、やめましょう。
そして、
自分に対して、
寛大になりましょう。
「
人に優しく、自分に厳しく」
ということを、理想に掲げている人も、いるでしょうが、
これは、結構、難しいことなのです。
自分に
優しく、
寛大であるほうが、
人に対しても、
優しく、
寛大になれるものなのです。
人に嫌われたくない!!
あなたは、
「
誰にも嫌われたくない」と思ってはいませんか?
けれども、それは、
無理です。
どんなに、「
誰にも嫌われたくない」と思っていても、
あらゆる人に、
嫌われないようにすることは、
不可能です。
地球上には、
65億人もの人が住んでいます。
その
65億人すべての人に対して、
嫌われないようにする手立てを、
考えつくことなど、できるでしょうか?
人それぞれ
好みが、違います。
人それぞれ
考え方も、違います。
そしてまた、
どんなに
嫌われないように努力しようとも、
「
嫌われないように努力するような人」を、
嫌う人も存在します。
すべての人に
嫌われないようにすることは、
とうてい
無理です。
不可能なのです。
諦めましょう。
嫌われたら、どうしよう…
「
人に嫌われたくない!!」
と強烈に思っているあなた。
じつは、
「
嫌われたら、どうしよう…」
と、
不安や
恐れを感じてはいませんか?
人に
嫌われたら、最後、この世の終わり。
生きて行けないくらい、
人から
嫌われることを、
恐れてはいませんか?
けれど、
人に
嫌われると、
本当に、そんなに
恐ろしいことが起こるのでしょうか?
もし、あなたが、
赤ちゃんなら、
嫌われ、放って置かれれば、確かに生きて行けません。
しかし、あなたは、もう
大人なので、
嫌われても、生きて行く
力があるのです。
大丈夫です。
自分の
力を信じてください。
もしかすると、
あなたが、
嫌われたくないと思っている、その人は、
嫌いな人を、徹底的に攻撃したり、陥れたりする、
じつに
恐ろしい人なのかもしれません。
もしそうなら、
その人に
嫌われないよう努力するよりも、
近づかないほうが、ずっと
安全というものです。
「
さわらぬ神にたたりなし」です。
そうやって、
あなたも、自分が
付き合う人を、
選んでよいのです。
赤ちゃんは、自分が
付き合う人を、選べません。
けれども、
大人は、
選ぶことができるのです。
人を嫌っちゃいけない?
「
人を嫌ってはいけない」
と言っても
無理です。
好き嫌いというのは、
いくら「あってはいけない」と言おうとも、
あるものなのです。
食べ物の、
好き嫌いがあるのと、同じことです。
もしかすると、あなたは、
「食べ物を
好き嫌いしてはいけない」
と、思っているのかもしれません。
しかし、
好き嫌いは、あってもよいのです。
大切なのは、
「
好き嫌いの
基準だけで、行動しない」
ということです。
自分が、その食べ物を、
嫌いだという理由だけで、
その食べ物を、この世から、抹殺しようとしたり、
必要なのに、食べなかったりすることが、
いけないのです。
その食べ物が、
嫌いであっても、
自分の体に
必要ならば、
食べることこそが、大切なのです。
そして、
自分が少しでも食べやすいように、
料理の仕方を、
工夫すればよいのです。
人との付き合いでも、同じことです。
その人を、
嫌いと感じても、かまいません。
しかし、だからと言って、
その人に、
危害を加えたり、
損害を与えてもよい、
ということではないのです。
そしてまた、
その人が、自分にとって、付き合う
必要のある人ならば、
その人との、
付き合い方を、
工夫することが、
大切なのです。
人に良く思われたい…
たぶん、多くの人が、
人には
良く思われたいと思っているでしょう。
いい人と思われたり、
才能があると思われれば、
好感が持たれるし、
尊敬されもするでしょう。
人に
悪く思われれば、
無視されたり、
恨まれたり、
憎まれたり、
何が起こるかわかりません。
そんな
災難を逃れるためにも、
人には
良く思われた方が、
安全です。
ところが、
相手が、どんなに
良く思ってくれても、
実際にできることは、
自分の力の
範囲内です。
それ以上のことをしようと思っても、
結局、
対応しきれないという事態が、発生します。
そうすると、
かえって、
信用を失ってしまうこともあります。
自分の力以上に、
良く思われるということは、
そういう
危険をはらんでいるのです。
そういう訳で、
人との
信頼関係を作りたければ、
自分の力以上に
良く思われる努力をするより、
自分の持っている
力を、
誠実に示すほうが、じつは、得策なのです。
ブタもおだてりゃ、木に登る?
「
人の期待に応えたい…」
人から
期待されれば、
応えたいと思うものです。
人から
期待されると、
励みになりますが、
度を越すと、
重荷にもなります。
そしてまた、
相手が期待することと、
自分が望むこととが、
違う場合も、これまた
厄介です。
特に、「
人から良く思われたい」と思っていると、
自分の力量や、
自分の願望を、
無視してしまうことがあります。
「相手の期待を裏切ってはいけない」と思ったり、
相手の期待に合わせようと、必死になったりします。
そうすると、
自分を見失い、ただただ、
相手の期待に、
振り回されてしまうことになるのです。
「
ブタもおだてりゃ、木に登る…」
さて、
あなたは、
本当に、その木に登りたいのですか?
「別の木に登りたい…」とか、
「本当は、草原を走りたい…」
とかいうことは、ありませんか?
人の期待を裏切る…
きっと、あなたは、
「
人の期待を裏切りたくない」
と思っているでしょう。
なぜなら、
相手の
期待に応えることで、
相手との
良好な関係を築いたり、保ったりできることを、
知っているからです。
けれども、
相手の
期待を裏切ることと、
相手の
信頼を裏切ることとは、
別ものであることを、忘れないでください。
期待は、事実の積み重ねがなくても、
勝手に、
自由に、期待することができます。
たとえば、初めて会う人に対してでも、
「親切な人だったら、いいな」
などという
期待する気持ちは、わいてきます。
一方、
信頼の気持ちは、
初めて会う人に対して、
いきなり、起きてくることはありません。
もし、その人の評判が良ければ、
「
信頼できそうだ」とは、思えても、
「
信頼できる」とまでは、言えません。
実際に、その人との付き合う中で、
信頼に値するような
出来事があって、
はじめて、
信頼の気持ちは、生まれます。
そして、
信頼に値するような
出来事が、繰り返されることで、
信頼の気持ちは、強まっていきます。
信頼は、
期待とは違って、
事実の積み重ねによって、
生まれてくるものなのです。
期待が裏切られるということは、
望む
予想が、はずれるということです。
要するに、「
期待はずれ」です。
ところが、
信頼が裏切られるということは、
すでに築かれていた
信頼が、
壊れてしまうことになるのです。
そういう訳で、
期待を裏切ることは、
信頼を裏切ることと、
一致するとは限らないのです。
謙遜も、ほどほどに…
謙遜は、一応、
美徳とされていますが、
「
過ぎたるは、及ばざるがごとし」です。
自分では、
謙遜のつもりでも、
度を越すと、
相手には、謙遜ではなく、
厭味に聞こえます。
特に、
相手が、自分より明らかに
優れていることについて、
過度に謙遜しているのを、聞くのは、
不快なものです。
あるいはまた、
過度の謙遜は、
「自分を
過小評価しすぎていて、
自分を
客観視することができていない」
と思われてしまうこともあります。
そうすると、
「この人の
自己申告は、当てにならない」
「この人の
言うことは、真に受けないほうがよい」
ということになってしまうのです。
なので、
謙遜も、ほどほどにしましょう。
相手にも、
それが、
謙遜であると、わかる程度がよいのです。
その「気」、無駄かも…
あなたは、人との付き合いの中で、
気を遣ってばかりはいませんか?
確かに、人に対する
気配り、
気遣いは、必要です。
気配り、
気遣いは、人間関係を、円滑にしてくれます。
しかし、
そのあなたの「
気」は、
相手に
通じていますか?
そして、
相手を
心地良くさせていますか?
あなたが、せっかく
気を遣っていても、
何も感じていない人もいます。
つまり、あなたほど、
敏感でない人もいるのです。
あるいはまた、
気を遣われていることを、負担に感じて、
返って、
くつろげない人もいるのです。
もし、あなたが、
気を遣いすぎて、疲れてしまうなら、
人に対して遣う「
気」を、少し
減らしてみましょう。
そうすることで、
相手の人は、どんな反応をするでしょうか?
悪い変化は、起きるでしょうか?
一度は、試してみてください。
人の心は読めない?
世の中には、
特殊な能力を持っている人もいて、
すぐに、相手の気持ちがわかってしまう人がいます。
すなわち、
人の心を読める人がいます。
けれど、
もし、あなたが、
特殊な能力の持ち主でないなら、
相手の気持ちは、
相手の
言葉を通して、
態度を通して、
行動を通して、
察することができます。
そしてまた、相手が、
特殊な能力の持ち主でないなら、
あなたの気持ちは、
あなたの
言葉を通して、
態度を通して、
行動を通して、
伝えられます。
なので、
お互い、
特殊な能力の持ち主でないなら、
「
言わなくてもわかるはず」とか、
「
態度に表さなくてもわかるはず」
というのは、無理なのです。
私たちにとって、
お互いを知る手がかりは、
外側に表れた、
言葉と
態度と
行動なのです。
人付き合いの盲点 鍵と鍵穴
「なんで、
こんな人とばかり、出会ってしまうんだろう」
「なんで、
こんな人とばかり、付き合ってしまうんだろう」
と嘆いているあなた。
運が悪いのかもしれないし、
前世の因縁かもしれません。
でも、その前に、少しだけ自分でも、考えてみましょう。
似た者同士がくっつき合う、
「
類は友を呼ぶ」というのは、有名です。
けれども、
意外と盲点になっているのが、
「
鍵と鍵穴」の関係です。
あなたと相手は、
似ているのではなく、
鍵と鍵穴のように、
ぴったり
噛み合ってしまっているのかもしれないのです。
あなたは、
不快でも、
相手は、どう感じているのでしょうか?
あなたの気持ちとは、裏腹に、
相手は、
とても
心地良く感じているのかもしれないのです。
もしそうなら、
相手は、
あなたに引かれて、
寄って来るし、
そしてまた、あなたを手放すはずがありません。
相手が、
命令的なら、
あなたの
態度は、
服従的なのかもしれません。
相手が、
わがままなら、
あなたの
態度は、
わがままに寛大なのかもしれません。
あなたが、外側に表している
言葉、
態度、
行動が、
相手と
噛み合うようなものになっていないか、
調べてみましょう。
あなたの
言葉、
態度、
行動が変わると、
出会う人、付き合う人の種類が、
変わってくる可能性が出てきます。
自分は自分、人は人
人に合わせることは、
協調性として、必要とされます。
そしてまた、
人と同じということは、
とても
安心するものです。
しかし、
「自分としては、
こうしたい!」
という気持ちがあるのに、
人に何か言われると、すぐ
揺らいでしまうあなたに、
この言葉を贈ります。
「
自分は自分、人は人」
そして、
人と比べて、
自分がダメな気がして、
頑張る気持ちを失いそうになっている人にも、
「
自分は自分、人は人」
何でもかんでも、
人に合わせる必要はありません。
何でもかんでも、
人と同じということはありません。
人との付き合いの中で、
自分を見失いそうになったとき、
人と違う自分を勇気づけたいとき、
この言葉を思い出してください。
「
自分は自分、人は人」