中高年のためのメールカウンセリング  ササユキ「自分を育てる心の学校」

自分を育てるあの手この手

すべてが、あなたに当てはまるとは、限りません。
ご自分に合ったものだけ、取り入れましょう。
いらないものは、置いていきましょう。

「自分を育てるあの手この手」目次




「自分を育てる心の学校」

ブログ
「中高年も成長する! 大人が、自分を育てる手がかり足がかり」









考え方、見方は、いろいろあります


 考え方は、脳の習慣です

あなたは、
自分の考え方変えたいと、
思うことがありますか?

考え方というのは、習慣と同じで、
繰り返していることが、身につきます。

私たちは、これまで生きてきた中で、
様々な考え方を、身につけてきました。

けれど、一度身につけた考え方が、
どんなときでも、また、いつまでも
役に立つかというと、そうでもありません。

物事がうまくいかないとき、
状況環境を変えるのではなく、
自分の考え方を、
変えたほうがいい場合があります。

しかし、
考え方変えようと思ったからといって
すぐに、変えられるとは、限りません。

なぜなら、
考え方というのは、脳の習慣だからです。
意識しないでいると、
今までの身についている、いつもの考え方が、
出てきてしまうのです。

つまり、
考え方変えるときには、
習慣変えるときと同じように、
簡単に変えられる場合もあれば、
根気強い、努力を必要とする場合もあるのです。

しかし、いずれにしろ、
考え方は、変えることが可能なのです。


 罪悪感…あなたの罪は何?

罪悪感は、
「それは、悪いことである」ということを、
理屈ではなく、直感的に、教えてくれるものです。
罪悪感があるお蔭で、
私たちは、悪いことをせずに済んだり、
もうしないようにしようと、強く思えたりするのです。

けれど、もし、あなたが、
罪悪感に、苦しんでいるのなら、
自分の罪悪感について、一度、検討してみましょう。

罪悪感を感じているからといって、
「それが、悪いことである」
という事実そのものを意味している訳ではありません。

意識している、していないにかかわらず、
「それは、悪いことである」という考えが、
自分の中にあるから、罪悪感が生じるのです。

なので、
昔、親に言われた 、
「それは、悪いことである」という考えを、
そのまま鵜呑みにして、引き継いでいれば、
そこから、罪悪感が生じます。

あるいはまた、
子どもの頃、自分で 、
「それは、悪いことである」と思った、その考えが、
そのまま残っていれば、
やはり、罪悪感が生じます。

そういう訳で、
罪悪感をもたらしている、
「それは、悪いことである」という考えについて、
検討することが必要なのです。

今現在の、大人のあなたが、もう一度、
「それは、本当に悪いことなのかどうか」を、
自分の責任で、判断し直してみましょう。

考えは、変えてもよいのです。


 親の考え方をひっくり返す、反抗期

私たちは、
親から、様々な考え考え方を、学んできました。

そうした親の考えに、逆らう時期が、
反抗期と呼ばれています。

逆らうというのは、
そのまま鵜呑みにするのではなく、
考え方正反対にしてみる、という工夫があります。
そういう意味で、考え方における、進歩と言えます。

しかし、じつは、
親の考え方を、そのまま受け入れようと、
その反対考え方を、支持しようと、
どちらの場合も、
考え方基準は、
親の考え方にあることに変わりありません。

親の考え方そのままでも、反対にしても、
うまくいかないときは、
別の考え方基準を、
組み合わせていく必要があるのです。

そこに、さらなる進歩が生まれます。


 2つに分けると、わかりやすいが…

良いか、悪いか。
か、×か。
か、か。

あるいは、
1つの基準を決め、
そうであるものと、そうではないもの。

…というように、2つに分ける考え方は、
物事を理解する上で、重要かつ強力考え方です。

物事を、2つに分類することにより、
ゴチャゴチャして、わかりにくかったことでも、
とても、すっきりした感じになります。

このすっきり感は、
分類したのが、2つだからこそ、得られるものです。

たとえば、
10とか、20に、分類することを、想像してみると、
すっきり感は、かなり失われるはずです。
あるいは、
分類すること自体、面倒になるかもしれません。

そういう訳で、
2つに分けるという考え方は、
物事を理解する上で、
わかりやすくて、とても魅力的です。

しかし、
世の中には、2つには割り切れないことが、
多々あります。

なので、
この考え方だけで、
人生を乗り切ろうとするには、無理があるのです。

もしかして、
あなたが、行き詰っているのは、
この考え方とりこになっているせいでは、
ありませか?


 明るい、暗い、2つに分けると

たとえば、
2つに分ける考え方においては、
明るさ暗さは、相反するものとして、
明るいか、暗いか、
分けることになります。

ところが、
をどんどん少なくしていくと、暗くなります。
をどんどん増やしていくと、明るくなります。
すなわち、
明るさ暗さは、
光の量による違いであり、連続しています。

この考え方は、程度の違いに着目する考え方です。

実際、
私たちの生活においては、
明るさ暗さは、連続しています。
昼間明るくて、
夜に向かうにつれて、だんだん暗くなります。

しかし、このとき、
2つに分ける考え方を適用すると、
明るさの調整のできない電灯を、1つだけ持っていて、
暗いとき、電灯点け
明るいとき、消す、というように、
電灯点けるか、消すか、
2通りしかないことになります。

それで、快適であれば良いのですが、
不都合が、あるのなら、
複数電灯を用意して、明るさの程度に合わせて、
点ける電灯個数を変えるということも、
可能なのです。

このように、
物事を程度の違いとして、捉え、
いくつかの段階に分けて、対応していくことは、
手間はかかるけれど、
より快適な結果を得ることができます。

2つに分けるという考え方で、
行き詰ったときには、
程度の違いに着目する考え方も、
取り入れてみましょう。


 いきなり「〜ねばならない」はないでしょ

人に、いきなり、
〜しなければならない」と言われたら、
「なぜ?」「どうして?」と、
あなたは、思いませんか?

もし、そう思うなら、
それは、まともな反応です。

そもそも、
〜しなければならない」という言葉は、
目的を示す言葉と、組み合わせて使うものです。
つまり、
〜するためには、〜しなければならない」のです。

ところが、私たちは、
いつの間にか、元々の目的を忘れてしまって、
〜しなければならない」ということだけが、
残ってしまうことがあります。
そうして、「〜しなければならない」ことを、
一生懸命やったりするのです。

もし、あなたが、
〜しなければならない」ことだらけに、
なっているのなら、
〜しなければならない」ことに、
追われてばかりいないで、
ひとまず、考えてみましょう。

その「〜しなければならない」ことは、
何のためにするのでしょうか?
そして、それは、
今の自分にふさわしい目的なのでしょうか?

子ども時代は、目的を選ぶ自由が制限され、
また、目的が理解できないままでも、
大人から、「〜しなければならない」ことを、
教え込まれてきました。

しかし、私たちは、大人になり、
自分の責任で、
目的を選ぶことができるようになりました。
教え込まれてきた「〜しなければならない」ことの、
目的について検討し、
選び直すこともできるようになったのです。

〜しなければならない」ことだらけになっている、
あなた。
〜しなければならない」ことの目的について、
もう一度、検討してみましょう。


 「〜ねばならない」が苦しい人へ

〜しなければならない」ことには、
必ず目的があります。
すなわち、
〜するためには〜しなければならない」のです。

ところで、あなたは、
目的は、自分で選んだはずなのに、
〜しなければならない」という言葉を使ったとたん、
重荷に感じて、苦しくなってはいませんか?

もしそうなら、
何でもかんでも、「〜しなければならない
と言うのはやめにしましょう。
そして、もっとふさわしい、
別の表現を探してみましょう。

まず、
そのことは、その目的のために、
本当に「〜しなければならない」ことなのか、
それとも「〜したほうがいい」ことなのか、
その区別を、つけましょう。

さらに、
〜したほうがいい」ことであっても、
どの程度「〜したほうがいい」ことなのか、
程度についても、区分しましょう。

あるいはまた、
「〜するためには、〜してみる
「〜するためには、〜しよう
「〜するためには、〜する
など、他の表現で、ぴったりくるものがあるなら、
それを、使いましょう。

言葉を変えるだけで、気持ちも変わります。

どうぞ、試してみてください。


 引いてもダメなら、足してみな 

物事を評価するとき、
満点から、減点していく減点方式と、
0点から、得点を、加えていく加点方式があります。

あなたは、
自分自身を、減点方式で評価しているために、
苦しくなっては、いませんか?

もしかしたら、あなたは、
かつて学校生活で、
100点満点のテストを、
「今回は、何点減点されたのか」とばかり、
考えていたのかもしれません。
そして、その頃は、
それで、頑張れたのかもしれません。

しかし、今はもう、苦しいのなら、
加点方式を、取り入れてみましょう。

減点方式では、できなかった点数を数えます。
一方、
加点方式では、できた点数を数えることになります。
そして、できなかったとしても、
それで、減点されることはなく、
単に、点数が増えないだけのことです。
何が得点になるのかだけを、知っていて、
その得点を、どんどん加算していけばよいのです。

なので、
加点方式に、満点という限界はありません。
果てしない可能性を秘めていると言えます。

さて、
今のあなたに必要なのは、
減点方式ですか?
加点方式ですか?


 打算、計算、損得勘定は、できたほうがいい 

一般的には、
打算的とか、計算高いというのは、嫌われ、
損得勘定がないことが、
良いことのように思われています。

たとえば、
友人のために、一肌脱ぐ、というのは、
損得勘定がない、などと言われたりします。

しかし、
心の働きが、うまくいっている人なら、
損得勘定が、ちゃんとなされているのです。

すなわち、
友人のために苦労するというと、
友人を大事にするという満足感というが、
ちゃんと、釣り合っているのです。
あるいは、満足感というのほうが、多いのです。

なので、
あとから、見返りを求めたりしないのも、
恩着せがましくないのも、
損得勘定がないからではなく、
自分にとってのとは、何であるかを知っていて、
心の秤が、のほうに傾いていないからなのです。

これが、釣り合わずに、ばかりしていれば、
が参ってしまいます。

なので、
損得勘定できたほうが、気持ち良く生きられます。

けれど、
損得勘定することは、
そう簡単なことでは、ありません。

まず、
自分にとってのとは何か、とは何かを、
知っている必要があります。
それは、
自分がどんな価値観をもっているかに、左右されます。

そして、
同じ単位では計算できないような異質の物を、
心の秤にかけて、釣り合いを見ることになるのです。

自分の価値観が変われば、釣り合う位置もまた、
変わってくるので、
自分の心の秤は、どうなっているのか、
そのときどきに、
自分に尋ねていくしかないのです。


 完璧主義は、完璧ではない

「これが、完璧の姿である」と、
示せることと、示せないことが、あります。

たとえば、
語源の通り、
「キズのない玉が良い」とされているので、
完璧にキズがない玉は、完璧です。

ところが、
「大きい玉が良い」とされたとしても、
完璧に大きい玉とは、どんな大きさでしょう。
「重い玉が良い」とされたとしても、
完璧に重い玉とは、どんな重さでしょう。

完璧に大きい」という大きさを、
示すことはできません。
完璧に重い」という重さも、
示すことはできません。

要するに、
「これが、完璧である」という到達地点がないのです。
どこまで行っても、「より大きい」、「より重い」が、
果てしなく続くだけなのです。

そして、
完璧の姿を示すことができない事柄については、
それが、完璧であるかどうか、
判断のしようがありません。

完璧かどうかの判断ができないことに、
完璧主義は、適していません。
つまり、
完璧主義は、
あらゆることに対応できる完璧さを、
持ち合わせてはいないのです。

完璧の姿を示せない事柄に対しては、
完璧主義で、どんなに頑張ろうとも、
完璧という地点に、決して到達することはないのです。

ところで、あなたは、
何事に対しても、
完璧主義でいこうとしていませんでしたか?


 変えられるか、変えられないか

あなたは、
自分の努力が報われていないと、
感じることはありませんか?

努力が、必ずしも、報われるとは、限らないのは、
努力の方向や、やり方が、
間違っている場合があるからです。

しかし、それだけでなく、
そもそも、変えられないものを、変えようと、
努力している場合があるからです。

努力によって、
何も変えられない訳ではありませんが、
努力によって、
何でも変えられる訳でもありません。

変えられるものなのか、
変えられないものなのか、
を判断すること自体、難しかったりします。
実際、
そのどちらなのか、確実な判断ができない事象は、
世の中に、多々あります。

しかし、それでも、
私たちが、人生行き詰ったとき、
変えられるものなのか、
変えられないものなのか、
という視点を持つことは、
新たな道を切りひらく上で、助けになります。


 いわゆる、自分を客観的に見る…(1)

「人間は、常に主観的でしか、あり得ない」
などという、哲学論争は、さておき、
一般的、実用的な意味での、
自分を客観的に見る方法についてです。

まず、一つの方法は、
体外離脱のように、見る自分が、体を抜け出して、
外側から自分を見る方法です。

この方法は、
今現在の、自分の状態を見る方法として、有効です。

しかし、
体に入っているほうの自分からすると、
見られているとか、監視されている感じがして、
落ち着かなくなります。

また、
意識が、体から、抜けている分があるため、
どうしても、本体である体のほうの自分が、
おろそかになってしまいます。

なので、
必要があって修行している人以外は、
この方法は、やめたほうがよいでしょう。

むしろ、
自分の意識を、しっかりと、
自分の体の中に納めて置くことを、お勧めします。
そうしたほうが、安全で、
かつ、
自分の力を充分に発揮することができるからです。


 いわゆる、自分を客観的に見る…(2)

自分を客観的に見る、もう一つの方法は、
実況中継のような即効性は、ありませんが、
安全で、充分に役立つ方法です。

それは、
自分の目の前に、自分の姿を、
テレビや映画のように、映し出す方法です。

このとき、
自分の意識をしっかりと、自分の体の中に置いておき、
映像に中に入ってしまわないように、気をつけます。

なぜなら、
映像の中に、意識が入ると、
映像に映し出されている、そのときの感情を、
味わってしまい、
冷静に見ることが、できなくなってしまうからです。

意識が、映像に入りにくくするためには、
見る自分と、映像との距離を、
充分にとるようにするとよいでしょう。

このようにして、
自分以外の他の人を、見るときと、同じような感じで、
自分の姿を見ることが、できます。

さて、
あなたは、自分を客観的に見るとき、
どうしていますか?


 遠く離れて、自分を見る

自分を客観的に見るときには、
自分の姿を、自分の前に、
映像として、映し出す方法が、お勧めです。

さて、それから、
自分の姿を、どんどん遠ざけていくと、
自分の姿が、小さくなり、
周囲のものも、視野に入ってきます。

そうやって、小さくなった自分を見たとき、
見ているあなたは、どんな気持ちになりますか?

「ちっぽけで、くだらない」と思うのでしょうか…。
それとも、
「小さくて、いじらしい」と思うのでしょうか…。

見方を変えると、
自分自身について、いつもとは、違った感想を、
持つことができるでしょう。
「こう思わなければならない」
などという決まりはありません。
あなたの思った通りでよいのです。

さらに、自分の姿を、遠ざけていくと、
いつの間にか、地球が見えてくるかもしれません。

そうして、あなたは、何を感じるのでしょうか…。

このとき、
気をつけてほしいことが、一つあります。

見ているあなた自身が、
宇宙の果てに行ってしまわないことです。
自分の意識が、宇宙まで飛んでも、
戻って来れる修行をしている人以外は、
必ず、地球に居たままで、
映像として、その姿を見てください。


 たまには、自分の人生を眺めてみる

私たちが生きているのは、今現在だけです。
過去を生きることも、未来を生きることもできません。

しかし、たまには、
人生という、過去から未来へと続く時間の流れの中で、
自分を、見てみるのはどうでしょう。

一人の人間が生まれて、
どんな道筋を通って、
どこに向かおうとしているのか、
そして今、どんな場面が、展開しているところなのか、
自分という人間の、人生の物語を眺めてみます。

過去を思い出して、その中に入って味わうのではなく、
自分は、こちら側にいたままで、
映像として、人生の物語を、眺めてみるのです。

行き詰ったり、混乱したり、苦しいとき、
視点を変えて、
自分を、
人生という時間の流れの中で、捉えてみることが、
助けになることがあります。

そして、
見る側の立場から、
さらには、脚本家になって、
この物語を、この先、どんな展開にしていくかを、
考えてみることもできるのです。


 宇宙の歴史からすると…

宇宙が誕生してから、
120億年とも、150億年とも言われています。
そのうち、地球が誕生してから、46億年…。

それを基準に考えれば、
自分に与えられた人生の長さは、
一瞬のようなものです。

あなたは、どう感じますか?
一瞬だから、あってもなくても変わらない」
それとも、
「そんな中の一瞬として、存在していることはすごい」

正しい感じ方がある訳ではないので、
どう感じてもよいのです。
ただ、基準を変えてみると、
感じ方も変わることがある、ということです。

実際、私たちが生きていく上で、
人生一瞬だとは、思えないでしょう。

しかし、
別の基準も、知っていることで、
つらさ苦しさが、
少しだけ、しのぎやすくなったりします。
あるいは、
人生おもしろみを追加させてくれたりするのです。

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